Archive for the ‘artist’ Category

DEVICS

木曜日, 12月 15th, 2011

ヴォーカリストのサラ・ラヴとマルチ・インストゥルメンタリストのダスティン・オハロランによるLA出身男女2人組ユニット。ハワイに生まれ、両親の離婚後、母親とともにロスに引っ越したが、その後、父親に誘拐され、そのままイスラエルで数多くのロックンロールの偉人と、国際色豊かな逃亡者とともに幼少時代過ごし、6歳の頃には歌手になること予見していたサラ。一方、ロスで生まれ、同じく6歳の頃にはピアノの神童と呼ばれ、母親が病気をして以後、父親とともにハワイに移住したダスティン。奇しくもロスとハワイを行き来しながらすれ違っていた二人は、90年代後半、サンタモニカ・カレッジのアートスクールで出会い、音楽活動を開始する。1996年に初期のデモを集めた「Buxom」を自主でリリース。1998年にはSplinter Recordsから正式な1stアルバム『If You Forget Me』をリリースする。続けてEP「The Ghost And The Girl」をリリースするや、これがコクトー・ツインズのサイモン・レイモンドの耳に留まり、彼のレーベルであるベラ・ユニオンに招待される。2001年『My Beautiful Sinking Ship』リリース。ダスティンのトレードマークとも言えるジャングリーなピアノ、パリジャンスタイルのアコーディオン、そしてリヴァーブにどっぷり浸かったギターがサラの今まで以上にカタルシスなヴォーカルの完璧な土壌となり、アメリカでアンダーグラウンドな成功を収めたあと、ヨーロッパにも飛び火し、東ヨーロッパからロシアまで大々的なツアーが敢行された。そして彼らは、ジョゼッペ・ベルトリッチ(ベルナルド・ベルトリッチの実弟)監督による「L’amore Probabilmente」のフィルムスコアに抜擢され、一躍知名度を上げたイタリアに引越し、3rdアルバム『The Stars at Saint Andrea』をレコーディング。このアルバムはヨーロッパ中にDevics旋風を巻き起こし、Mazzy Star、Portishead、PJ Harvey、Throwing Musesを引き合いに出され、海を越えたイギリスでも、NME、Uncut、Times of Londonといった音楽誌から大絶賛を受けた。この成功を受け、ダスティンはソロ・インストゥルメンタル・アルバム『Piano Solos』をリリース。イギリスのMojo誌や、イタリアのRolling Stone誌で4つ星を獲得し、ドビュッシーやショパン、ベートーヴェンらを引き合いに出されるほどの評価を受けた。2004年、4枚目のアルバム『PUSH THE HEART』を完成させるため、出発点であるLAに戻ってくる。同作は、Devicsの新しい始まりを、そして過去の栄光のハイライトを垣間見せつつ、リスナーを経験したことのない音楽的な旅へと誘う最高傑作となった。モダンかつクラシカルなダスティンのソングライティングは、ソフィア・コッポラの耳にもとまり、彼は2ndソロ『Piano Solo Vol.2』の楽曲を「マリー・アントワネット」に提供することになる。

THE HEARTBREAK MOMENT

木曜日, 12月 15th, 2011

宅録ドリーミー・ポップ・アーティストHER SPACE HOLIDAYことマーク・ビアンキ。恐ろしいほど美しい世界を生み出すポップ&ビート職人ジョゼフ・ナッシング。エレクトロニカにイノセントな風を吹き込む歌姫ピアナ。国籍も性別も異なりながら、必然的な偶然によって導かれた3人によるグローバル・スーパー・ユニット。2006年6月、東京郊外にあるピアナの自宅で録音されたこのデビューEP『THE SOUND OF OUR SUMMER』は、3人が手探りで関係を築きながら、共に音楽を生み出して行く、その空気そのものを封じ込めた、至極プライベートなサウンドスケッチ集になっている。オーガニックでスポンテイニアス。音楽を作る喜びに満ちた、眩すぎる4曲となった。同年10月には、東京と大阪で、3人による合同ライヴを成功させている。

TEX LA HOMA

木曜日, 12月 15th, 2011

UKを拠点に活動するシンガー・ソングライター/コンポーザー/プロデューサーであるMatt Shawによる1人ユニット。バンド名は、Douglas Couplandが1991年に発表した小説『Generation X』から拝借したもの。2002年に1stアルバム『Dazzle Me With Transience』を、微妙にヴァージョンを変えてUK(Superglider Records)と日本(Painted Sky Discs)でリリース。翌2003年には早くも2ndアルバムを『If Just Today Were To Be My Entire Life』をフランスおよびヨーロッパはTalitres recordsから、北米とUKは Hydrid Electric Records からリリースしている。このアルバムでは、Mattのウィスパー・ヴォイス、多彩なディストーション、美しいメロディー、ロー・ファイ・ギター、チル・アウトを演出する電子音、映画的な世界観など、多くの要素が見事に融合されており、高い評価を得た。このアルバムをサポートするために、2003年から2004年にかけて、アメリカ、フランス、スペイン、ドイツ、デンマーク、スイス、イングランド、アイルランド、スコットランドと世界中をツアーして回った。今回レーベルメイトとなったHer Space Holidayとも共演経験がある。また、アルバムの以外にもEPを2枚Superglider Recordsから、2枚Moonpalace records (Spain)からリリースしている他、Melodic (UK), Painted Sky Discs (Japan), Foehn (Spain), Moonpalace Records (Spain) 、 Acuarela (Spain)のコンピにも積極的に参加するなど精力的に活動している。そして2006年、フルアルバムとしては3年ぶりとなる3rdアルバム『SOME LOST BLISS』を、世界に先駆けて& recordsより先行リリース。エレクトロニクスに優しく包まれたMattの繊細な唄心がフルに詰まったまごうことなき最高傑作となった。エレクトロニカが飽和状態を迎え、新たなSSWムーヴメントの喧騒が聞こえてくる現在、より多くの人に彼の唄が響く時代になったと言えるだろう。

DNTEL

木曜日, 12月 15th, 2011

LAを拠点に活動するJimmy Tamborelloによるエレクトロニカ・ユニット。1994年、ブライアン・イーノとハードコアを融合したようなサウンドで、メディアから“イーノコア”と称されたStrictly Ballroomを結成する。バンドではベーシストだったが、同年、Dntelとしても活動開始。Strictly Ballroom は97年にアルバム『Hide Here Forever』をリリースするが、そのすぐ後、ギター/ヴォーカルのChrist GunstがBeachwood Sparksに、JimmyがFigurineに参加することになり、解散。Dntelとして、95年から97年にかけて制作されたトラックは、99年にリリースされた初期音源集『Early Works For Me If It Works For You』で陽の目を見る。翌年には、94年に制作されたEP「Something Always Goes Wrong」がリリースされた。そして、2001年に、ようやく1stフル・アルバム『Life Is Full Of Possibilities』が、地元LAのPlug Research Recordsよりリリースされる。盟友Christ GunstやPaul Larsen(元Strictly Ballroom)をはじめ、Death Cab For CutieのBen GibbardやThat DogのRachel Haden、Slint/For CarnationのBrian McMahan、さらにLAの日系ハーフのSSWでPrefuse 73とも交流のあるMia Doi Toddらが参加したこのアルバムは、エレクトロニカ・ポップの隠れた名盤として、高い評価を得る。そんな中、この1stアルバムでの共演を発展させるような形で実現した、Death Cab For CutieのBenとのユニットThe Postal Serviceの1stアルバム『Give Up』がSub Popよりリリースされる。まさにエレクトロニカ meets インディー・ロックと言ってよいこの傑作は、初めこそゆるやかなスタートだったものの、徐々に話題を呼び、気が付けばSub PopにとってNirvanaの『Bleach』以来となるゴールド・ディスク(50万枚)を獲得するほどの大ヒットを記録する。その後、Death Cab For Cutieがメジャーと契約し、ビルボードで初登場4位となるという現象も、このThe Postal Serviceのブレイクによるところが大きいと言っても過言ではない。あまりの人気ぶりに、アメリカの郵便公社が、“紛らわしい”として、バンド名の使用停止を求めて訴えを起こしたのは有名な話(現在は、プロモーションに協力するということで和解)。2006年には、Jimmyのもう1つの“テクノ”・ユニットJames Figurine名義でアルバム『Mistake Mistake Mistake Mistake』(Kings Of ConvenienceのErlend OyeやRilo KileyのJenny Lewisなど参加)をPlug Researchよりリリースするなど精力的に活動を続ける。そして、2007年、Dntelとしては実に6年ぶりとなる本作『DUMB LUCK』が遂に完成。1曲目のタイトル・チューンは自分で歌っているが、その他のトラックは、前作に続いて参加のChris Gunst(現Mystic Chords Of Memory)、Mia Doi Toddをはじめ、The Postal Serviceも含めJimmy関連作品に3連続参加となるJenny Lewis、Bright EyesのConor Oberst、James Figurineにも参加し、間もなくSub Pop傘下の新レーベルhardly artよりアルバムをリリースするArthur & YuのGrant OlsenとSonya Westcott、Morr Musicを代表するドイツのエレクトロニカ・ユニットLali PunaのValerie TrebeljahrとMrkus Acher、Ninja TuneやWarp傘下のLexからリリースするミネアポリスのバンドFogのAndrew Broder、そしてWarpに所属するブルックリンのバンドGrizzly BearのEdward Drosteなど、超豪華なメンバーが華を添えている。さらに、元Strictly Ballroomで、現Moving UnitsのChris Hatchwellもドラマーとして参加。The Postal Serviceに続いてSub Popからリリースとなる本作は、単なる企画もののコラボ・アルバムなどではない。コラボレーションというもの自体に、アーティスティックな特性を見い出すことのできるJimmy Tamborelloというアーティストの、その10年以上に及ぶキャリアの集大成というべき、堂々たる歴史的傑作。

JAMES FIGURINE

木曜日, 12月 15th, 2011

LAを拠点に活動するJimmy Tamborelloによるテクノ・ポップ・ユニット。Strictly Ballroomで活動していたJimmyが、高校生の時に知り合ったDavidを中心に、Meredithと共にFigurineを結成する。Figurineは、「人形」を意味するFigurineをメンバーのファミリー・ネームとして使用し、80’sライクなシンセをバックに、ロボットやUFO、そしてデジタルな恋愛について歌うという、ディーヴォやクラフトワークに影響を受けた3人組テクノ・ポップ・バンド。1999年に1stアルバム『Transportation+Communication=Love』(blackbean)を、2001年に2ndアルバム『The Heartfelt』(march)をリリースしている。その後、Jimmyは、DntelやThe Postal Serviceとしての仕事が増え、Figurineは活動を停止する。そして、DntelやThe Postal Serviceの新譜が待たれていた2006年、突如として、James Figurine名義でアルバム『MISTAKE MISTAKE MISTAKE MISTAKE』をリリースする。これは、2001年にFigurineとして、Lali Punaと一緒に回ったドイツ・ツアーで、改めてテクノに目覚めたというJimmyの、彼なりの解釈によるテクノ・ポップの集大成。ゲストとして、Erlend Oye(Kings Of Convenience、Whitest Boy Alive)、Jenny Lewis(Rilo Kiley)、そして、Sonya Westcott(Arthur & Yu)等が参加している。Dntelの2ndアルバム『Dumb Luck』日本盤リリースの際に、2006年リリースの1stアルバムが、ボーナストラック2曲を追加収録して、スペシャル・プライスにてリイシューされている。

ARTHUR & YU

木曜日, 12月 15th, 2011

シアトルを拠点に活動するGrant OlsenとSonya Westcottによる男女デュオ。2005年、Sonyaがインターネット上に掲載した、ユニークなメンバー募集にGrantが反応して、出会う。たまに友人を交えたりしながらも、ほとんど2人で、Grantのベッドルームで曲を作り、録音を始める。しばらくして、そのデモを耳にしたJimmy Tamborello(Dntel、The Postal Service、Figurine等)から声がかかり、Jimmyのテクノ・ポップ・ユニットJames Figurineのアルバム『MISTAKE MISTAKE MISTAKE MISTAKE』の1曲目「55566688833」にSonyaがヴォーカルとして参加することになる。Jimmyとのコラボレーションは、彼のDntel名義での2ndアルバム『Dumb Luck』でも継続される。Jimmyの作ったトラックに、様々なアーティストが歌詞とメロディーを乗せるという形で作られたこのアルバムの5曲目「The Distance」で、Grantが歌詞を提供し、Sonyaとともにハーモニーを披露している。このコラボレーション以前は、エレクトロニック・ミュージックをほとんど聴いたことがないというGrantだが、ここでは見事なケミストリーを醸し出している。そして、2007年、初のアルバム『IN CAMERA』が完成。お互いの幼少の頃のニックネームだというユニット名のとおり、アコースティック・ギターやタンバリン、グロッケン、そして何より深いエコーに包まれた二人の歌声が、聴くものを温かくイノセントな世界に誘う。現在、第二期黄金期ともいえるSub Pop Recordsの出版部で働いていたSarah Moodyは、彼らの歌世界に魅了され、そして遂には彼らのためだけにSub Popの中に新レーベルhardly artを立ち上げるに至る。そんな、バンドにとって、レーベルにとって、初のリリースとなる記念すべき1枚が、& recordsより、彼らが世に出るきっかけとなった2作と同時に、世界に先駆けてリリースされる。

xoxo, panda

木曜日, 12月 15th, 2011

サン・フランシスコ近郊のサン・マテオ在住のシンガー・ソングライター、マーク・ビアンキによる1人ユニット。元々、ハードコア・バンドで活動していたが、1996年よりハー・スペース・ホリデイとして1人で創作活動を開始する。最初期は、箱庭的ギター・ポップであったが、2001年リリースの4thアルバム『MANIC EXPRESSIVE』で、大胆にエレクトロニカを導入し、絶賛される。続く5thアルバム『THE YOUNG MACHINES』(2003年)では、ヒップホップ的グルーヴも獲得。翌年、日本デビューを果たし、いきなりのスマッシュ・ヒットとなる。同年夏、初来日。さらには、ブライト・アイズ(以前、スプリットで共演経験あり)、フェイントとのツアーを敢 行、キッド606やブーム・ビップらのリミックスを手がけている。2005年リリースの6thアルバム『THE PAST PRESENTS THE FUTURE』のリリースの直前には、サマー・ソニックにも出演を果たし、同アルバムが大ヒットを記録する中、盟友アメリカン・アナログ・セットとのカップリングで来日ツアーを成功させる(京都では13 & GODも参戦)。2006年には、元YMOの高橋幸宏のソロ・アルバムに作詞とヴォーカルで参加したのみならず、合同ツアーも敢行(このツアーの模様はDVD化の予定あり)。その合間を縫うように、ジョゼフ・ナッシングとピアナとのコラボ・ユニットであるザ・ハートブレイク・モーメントのEPや、イラストレーターpcpとのコラボレーションである絵本CD『THE TELESCOPE』をリリースするなど、精力的に活動。そして、2007年夏、三菱自動車「OUTLANDER」のCMにて、「Stand By Me」を唄う彼の声がお茶の間に響き渡る中、新たなユニットであるxoxo, pandaのアルバム『THE NEW KID REVIVAL』が遂に完成。これは決して“サイド・プロジェクト”などではない。『MANIC EXPRESSIVE』『THE YOUNG MACHINES』『THE PAST PRESENTS THE FUTURE』という“エレクトロニカ3部作”にて、ある種の達成感を得た彼が、改めて“うた”の力、そして肉体性を獲得するべく、エレクトロニクスをあえて排除。アコースティック・ギター、ベース、バンジョー、グロッケンシュピール、ドラムなどの楽器をすべて自分で実際に演奏し、そして、ハー・スペース・ホリデイでの囁くような、俯き加減な唄い方と比べると、驚くほど力強く、高らかに歌い上げている。彼が素晴らしいトラックメイカーであると同時に、素晴らしいメロディーメイカーでもあること、そしてアーティストとしてネクスト・レヴェルに到達したことを証明するかのように、とてもプリミティヴでジョイフル、シンガロング度の高い、愛すべき歌たちが詰まった作品となった。同アルバムには、すでにハー・スペース・ホリデイのステージでも演奏されていたお馴染みの楽曲に加え、前述のザ・ハートブレイク・モーメントと、絵本CDのテーマ・ソング「ザ・テレスコープ」のセルフ・カヴァーも収録。さらに、日本盤には、サッポロビールYEBISU THE HOPのCMソング「第三の男」のフル・ヴァージョンもボーナストラックとして収録される。なお、マークは、同CM夏編(7月より1クールオンエア予定)に、コーネリアスや曽我部恵一、クラムボン、高田蓮、つじあやのらと並んで、外国人として唯一人出演し、演奏シーンを披露している。アートワークは絵本に引き続きpcpが担当している。2007年11月には4 bonjour’s partiesをバックに従えて日本ツアーを敢行。以後、4bonはマークの欠かせないパートナーとなる。なお、本作は1年後、本国では再びMush から、HER SPACE HOLIDAYの『xoxo, panda and the new kid revival』としてリリースされており、アーティスト名としてのxoxo, pandaは日本だけの、それも一時期だけのものとなった。

MIA DOI TODD

木曜日, 12月 15th, 2011

ロサンゼルスで活動する日系ハーフの女性シンガー・ソングライター。日本名は土井美亜。日本滞在中は映画『メゾン・ド・ヒミコ』への出演で知られる田中泯に師事し、暗黒舞踏を学んでいた。イェール大学在学中の1997年に1stアルバム『The Ewe and the Eye』にてデビュー。2002年には4枚目となるアルバム『The Garden State』で、コロムビアよりメジャー・リリースも果たしている。その後、LAのPlug Researchより、Beachwood SparksやBrian Jonestown Massacreのメンバーがバックを務めた『Manzanita』と、そのリミックス・アルバム『La Ninja』をリリース。ハスキーで翳りのある歌声でエレクトロニカ系ミュージシャンからの支持も高く、Savath & Savalas、Nobody、DNTEL、Adventure Timeなどの作品で客演している。Ammon ContactのCarlos Nino、ヴィオラ奏者のMiguel Atwood-Fergusonと共に、自らプロデュースした2008年リリースの『GEA』は、『La Ninja』から2年ぶり、『Manzanita』から数えると3年ぶり、そして実に7枚目のアルバムになる。ベースにJoshua Abrams (Town & Country、Reminder)、パーカッションにAndres Renteriaらを迎え、ミアの滋味溢れる唄を際立たせるべく、深遠なる音世界を構築している。2月からは、ホセ・ゴンザレスと共に北米ツアーに出るという彼女。2008年、この傑作『GEA』によって、彼女の名前が大きくクローズアップされることは間違いない。

PORT O’BRIEN

木曜日, 12月 15th, 2011

2005年初頭に、カリフォルニアのカンブリアに住むカンブリア・グッドウィンと、同じくカリフォルニアのオークランドに住み、毎年夏にはアラスカで父親の漁業を手伝うというフィッシャー・マンでもあるヴァン・ピアースザロウスキーによって、フォーク・デュオとして結成される。ほどなく、カンブリアがベイエリアに引っ越すのを機に、ケイレブ・ニコラスとジョシュア・バーンハートをリズム隊に向かえ、バンドとなる。2006年に、EP「Nowhere To Run」LP『When The Rain Comes』をリリース。完全自主制作/リリースにも関わらず、その荒削りながら、心に突き刺さる唄心が話題を呼び、ブライト・アイズやトゥー・ギャランツのオープニング・アクトに抜擢される。また、マット・ウォードがピッチフォークのインタヴューで、「Nowhere To Run」収録の「ⅠWoke Up Today」を、ソング・オブ・ザ・イヤーに選出。大きな話題となる。2007年夏には、前述の自主制作の2作をコンパイルした編集盤『The Wind And The Swell』をAmerican Dustよりリリース。当然のようにピッチフォークやオール・ミュージック・ガイドで高得点を獲得、スピン・マガジンでも「ⅠWoke Up Today」が“Songs To Download Now(今、ダウンロードすべき曲)”としてフィーチャーされる。その後も、モデスト・マウスやローグ・ウェーヴらとステージを共にするなど、着実にその名を知らしめていく。そして、2008年春、遂にこの1stフル・アルバム『ALL WE COULD DO WAS SING』が到着。半数を、タイニー・テレフォン・スタジオにて、ニール・ヤング、デス・キャブ・フォー・キューティー、サン・キル・ムーン、マウンテン・ゴーツらを手がけたアーロン・プレウィッツによって、残りの半数を、パン・アメリカン・スタジオにて、ペイパーカッツのジェイソン・クエーヴァーによって録音された本作は、ニール・ヤングやウィル・オールダムといった偉大な先達に通じる枯れた唄心と、アーケイド・ファイアやクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーといった新世代バンドが持つ瑞々しさや荒々しさを併せ持った稀有なバンドの、堂々たるデビュー作品に仕上がった。日本盤にはボーナストラックとして『The Wind And The Swell』から1曲と、未発表新曲が追加収録される。

CLUE TO KALO

木曜日, 12月 15th, 2011

オーストラリア、アデレード出身のマーク・ミッチェルによるソロ・プロジェクト。子供の頃からテープ作りをしていたというマークはスーパー・サイレンス名義で活動を開始。MP3やCD-Rで楽曲を発表した後、2000年に地元のレーベル、サージェリーから、スーパー・サイレンスのアルバム『Love Like Life In Miniature』をリリース。現在のクルー・トゥ・カロの音楽に比べて「よりはっきりとエレクトロニックで、より混沌としていた」と彼自身が評価するその作品は、オーストラリアのオルタナティブ・ラジオ局で年間トップ10に選ばれるなど高い評価を得た。翌年、スーパー・サイレンスはオーストラリア、ニュー・キャッスルで開催されたサウンド・サミット・フェスに参加。ワイアー誌に「フェスのハイライト」とされたそのライヴ・パフォーマンスは注目で集める。この時、マークは同じくフェスに出演していたアメリカ西海岸のアンダーグラウンド・ヒップホップ集団アンチコンのクルー、ドーズワン、ソール、ジェルらと出会い、スーパー・サイレンスのCDを気に入ったドーズワンらはマークの新曲が入ったCD-Rをマッシュに紹介。マッシュは即座にマークとの契約を決めた。2003年、マークはマッシュからクルー・トゥ・カロ名義での1stアルバム『Come Here When You Sleepwalk』を発表。マッシュと提携するエレクトロニック・ミュージックの世界的な名門レーベル、リーフを通じてイギリス、ヨーロッパでもリリースされる。ブーム・ビップら同業者も敬服したこの作品で、彼の音楽はプレスに「ボース・オブ・カナダに乗る酔ったバッドリー・ドローン・ボーイ」などと喩えられ、ムームやパルス・プログラミング、Dntel、ミズ・ジョン・ソーダなどと比較された。2005年、2ndアルバム『One Way, It’s Every Way』リリース。海外では再びマッシュ及びリーフがリリースした同作は、アコースティック・ギターなどの生音の響きを最大限に活かしたオーガニック・サウンドをエレクトロニクスで調理。マークのソフトなヴォーカルで歌われる美しいメロディを優しくそえた逸品となった。この2ndで日本デビューを果たした彼は、2006年、来日。緊急来日にも関わらず、代官山UNITにてキエラン・ヘブデン(フォー・テット)&スティーヴ・レイドのオープニング・アクトを務め、渋谷O-NESTでは、ハー・スペース・ホリデイ、4 bonjour’s partiesと共演。超満員のオーディエンスに、強いインパクトを残して去っていった。そして2008年、3年ぶりとなる3rdアルバム『LILY PERDIDA』が到着。冒頭から、大胆にフィーチャーした女性ヴォーカルとピアノの調べに驚かされる。前作以上に、オーガニックな感覚や唄心がより全面に出ており、さらに、今回は、各曲タイトルに”~, by ~”とあるように、全ての楽曲が、どの視点から書かれたものか明確にしており、コンセプト・アルバムの体となっている。このように、サウンドも言葉も完全にコントロールして、新たな一大叙事詩を創り出した。音楽家として、トータルなプロデューサーとして、格段の成長を遂げたことがわかる。デビュー当時、エレクトロニカの新星と謳われた彼もまた、単なる”エレクトロニカ”の秀才などではなく、”ポップ・ミュージック”の天才であったのだ。日本盤には、ボーナストラックとして、ピクチャー・ヴァイナルとしてリリースされる予定の4曲入りEP「Man Who Took A Step Expecting A Stair But Instead Got Level Ground」(ビートルズ”Mother Nature’s Son”の秀逸なカヴァーを含む)を完全収録。CD化されるのは日本だけとなる。