ヴォーカリストのサラ・ラヴとマルチ・インストゥルメンタリストのダスティン・オハロランによるLA出身男女2人組ユニット。ハワイに生まれ、両親の離婚後、母親とともにロスに引っ越したが、その後、父親に誘拐され、そのままイスラエルで数多くのロックンロールの偉人と、国際色豊かな逃亡者とともに幼少時代過ごし、6歳の頃には歌手になること予見していたサラ。一方、ロスで生まれ、同じく6歳の頃にはピアノの神童と呼ばれ、母親が病気をして以後、父親とともにハワイに移住したダスティン。奇しくもロスとハワイを行き来しながらすれ違っていた二人は、90年代後半、サンタモニカ・カレッジのアートスクールで出会い、音楽活動を開始する。1996年に初期のデモを集めた「Buxom」を自主でリリース。1998年にはSplinter Recordsから正式な1stアルバム『If You Forget Me』をリリースする。続けてEP「The Ghost And The Girl」をリリースするや、これがコクトー・ツインズのサイモン・レイモンドの耳に留まり、彼のレーベルであるベラ・ユニオンに招待される。2001年『My Beautiful Sinking Ship』リリース。ダスティンのトレードマークとも言えるジャングリーなピアノ、パリジャンスタイルのアコーディオン、そしてリヴァーブにどっぷり浸かったギターがサラの今まで以上にカタルシスなヴォーカルの完璧な土壌となり、アメリカでアンダーグラウンドな成功を収めたあと、ヨーロッパにも飛び火し、東ヨーロッパからロシアまで大々的なツアーが敢行された。そして彼らは、ジョゼッペ・ベルトリッチ(ベルナルド・ベルトリッチの実弟)監督による「L’amore Probabilmente」のフィルムスコアに抜擢され、一躍知名度を上げたイタリアに引越し、3rdアルバム『The Stars at Saint Andrea』をレコーディング。このアルバムはヨーロッパ中にDevics旋風を巻き起こし、Mazzy Star、Portishead、PJ Harvey、Throwing Musesを引き合いに出され、海を越えたイギリスでも、NME、Uncut、Times of Londonといった音楽誌から大絶賛を受けた。この成功を受け、ダスティンはソロ・インストゥルメンタル・アルバム『Piano Solos』をリリース。イギリスのMojo誌や、イタリアのRolling Stone誌で4つ星を獲得し、ドビュッシーやショパン、ベートーヴェンらを引き合いに出されるほどの評価を受けた。2004年、4枚目のアルバム『PUSH THE HEART』を完成させるため、出発点であるLAに戻ってくる。同作は、Devicsの新しい始まりを、そして過去の栄光のハイライトを垣間見せつつ、リスナーを経験したことのない音楽的な旅へと誘う最高傑作となった。モダンかつクラシカルなダスティンのソングライティングは、ソフィア・コッポラの耳にもとまり、彼は2ndソロ『Piano Solo Vol.2』の楽曲を「マリー・アントワネット」に提供することになる。